ちらしのうら

感情の言語化をめざして

花に嵐

ブログを更新していない間、すばらしいことも悲しいこともたくさんあった。そのいろんなことを文字に書き起こそうとしても、なんだかすべてが薄っぺらくて、こんな文章を残すくらいなら、心の中に大切に閉まっておこうと思い、気づいたら1年以上経っていた。


通信制の大学に通ったり(今年度でやめる予定)、5年前に友人の紹介で知り合った人と付き合いはじめその彼と半同棲したり(楽しい)、かけがえのない愛犬が1511か月で生涯を終えたり(天命を全うしてくれた)、部署が異動になったりした。忙しくて絵は以前ほど描けなくなってしまった。スケッチはたまにするし、映画はよく観ていると思う。そして運動やストレッチが好きになった。


1年前とは状況がなにもかもが違っていて、人生なにがあるかわからないものだ。

世の中の情勢も目まぐるしく変わっていくし、衝撃的な事件が起こったりしている。


愛犬が亡くなったのは63日。私を含めて家族や彼女を長年診てくれた獣医さん、みんなたくさん涙を流して悲しんだけど、みんなそれぞれ後悔がなかった。約16年間、家族は愛犬に毎日毎日愛情をたっぷり注いで、たくさん抱きしめて、一緒に眠り、大好きだよと伝えて、一緒にいれるかけがえのない時間を心から楽しんだからだ。そして、そのことを愛犬もしっかりわかっているようで、愛犬も同じように私たちを大切に思ってくれているように感じたからだ。

獣医さんも彼女を大切に診てくれて、医療でできることはすべて施してくれた。獣医さんのおかげで彼女が最期まで苦しまずに済んだ。

明確なエゴだが、「わたしがしてあげられることは全部した」という満足感にも近い、やり切った感があった。


その日を境にこれまで綿菓子のようにふんわりとしていた「よりよく生きよう」という気持ちが強固なものになって、ありふれた生活を第一に、11日を心から大切にしようと決めた。

今日と同じ明日が来るとは限らない。来るなら、今日よりも明日のほうがわくわくして素晴らしいものであってほしい。いや、素晴らしい日にするのだ!そんな前向きな気持ちでいる。


死に向き合うことはとても辛く悲しい経験だ。(実際に信じられないほど涙がで続けたし、今でも思い返せば泣けてくる)しかしながらそこから学ぶことも大いにある。大学生の頃、ホスピスの授業で「死を考えることはよりよい生を考えることだ」と聞いたことを思い出す。そして、この世に生を受けた以上、さまざまな別れに向き合うことからは避けられない。

井伏鱒二の「花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ」って言い得て妙で頷かざるを得ない。別れが早いか遅いかだけのような、人生と人生がすれ違っているだけのような気すらしてくる。それならば、今周囲にいてくれる家族・友人・パートナーとできるだけ長く、後悔のないよう大切に時間を過ごしたいものだ。


働く女

よく働いていると思う。平均して21時に仕事を終え、22時に帰宅し、家事をこなし、気がつけば寝る時間になり、寝て、起きて、また働いている。今、悩んでいることがある。

 

悩んでいるのは本業の仕事のことではない。昔は「もっと自由でクリエイティブな仕事がしてみたい」と思っていた。今思うと自由でクリエイティブな仕事ってなんやねんと思う。具体的なイメージがなかった。ただ、今の職場に転職して学んだことは、クリエイティブというものは、ごく一般的な事務仕事においても求められるものであり、ちょっと工夫することで誰かが楽になれたりすることがわかって、仕事内容にこだわりや不満がなくなった。非効率な業務はこの1年で効率化を図ってある程度うまくいったし、給料もそこそこ、人間関係も良好で、うまくいっている。だからこそ、別のことに目が向く。

 

今、わたしは芸術大学の入学出願ページを見て、オンライン説明会に参加し、3年次編入するかどうかを悩んでいる。悩んでいる間に、明日は一次締切だ。大丈夫、チャンスは後2回ある。

 素直な気持ちを述べると、メチャメチャ入学したい。絵を描くことを追求したいし、今より表現力を身につけたいし、物を正しく見れるようになりたいし、知らないことを知りたい。でも、だ。悩むのは、入学したその先、どこに向かっていくのか?ということだ。趣味で描き続けるのか、仕事にするのか。正直なところ、趣味では物足りなさを感じている。ただ、仕事にするのか?と聞かれると、グッと踏みとどまる。

 

「音楽で世界は変わらないけど、誰かに寄り添うことはできる」

 

これはだいすきな星野源さんの言葉だ。この悩んでいるタイミングで「創造」がリリースされ、星野さんの創作活動の話を頻繁に聞くようになった。過去に執筆された本などにも創作への姿勢が綴られており、そのひたむきさと真剣さに胸を打たれる。

もっといろんな人に自分の音楽を聴いてほしい、だけどそれが迎合するものになっていないか立ち止まって考え、自身が発信したいものを創造する。そんな姿勢がすきだし、共感する。

 

音楽で世界は変わらないけど、誰かに寄り添うことができる。実体験的にも共感する。この言葉を聞いて考えた。じゃあ絵はどうだろう。 

わたしは絵を描くし、絵を見ることがだいすきだから、幼い頃から美術館に連れて行ってもらっては、あまりの美しさに、作品の前で号泣することが多々あった。そんな子どものまま大人になってしまったから、絵に救われたことが幾度もある。

 

でも一般的にはどうだろう。音楽を聴かない人もいると思うけど、一枚の絵というものを注意深く見る人がどれくらいいるだろう。音楽を聴く人よりずっと少ないと思う。グラフィックは街にこんなにもあふれかえっているのに、だれも足を止めず、ただ前を見て目的地に向かって歩いているだけで、絵は景色だ。

 

わたしにとって絵を描くというのは、現時点では自己表現のひとつ(コミュニケーション)というのが大きく、それ以上でも以下でもない。ただ、ひたすらに楽しいのだ。

だけど、現状に物足りなさを感じているのは、依頼を受けて、限られた範囲の中でいいものをつくるという経験をしてみたいという気持ちが少しずつ湧き始めているからだと、最近気づいた。絵を見てほしい!って思ってる自分がいることにようやく気づいた。だけど、絵を仕事にすることを踏みとどまるのは「絵を見てくれた人にわたしはなにができるのか(なにができたのか、あるいはどんな影響を与えれるのか)」がハッキリとわからないからだ。コミュニケーションだと思っているからこそ、景色になったら悲しい。

 

絵は世界を変えることもできないし、誰かに寄り添うことも、もしかしたらできないのかもしれない。多くの人にとって絵という媒体は景色としてしか存在できないのかもしれない。それをわかったうえで、どうやって絵に向き合えばいいんだろう?

 

何事にもおいてもそうだけど、どうも自分自身と対話をするのが得意なほうらしく(一人っ子ならではかもしれない)いろんなことに気づいてしまう。気づかなければ楽だったのになあっていつも思う。いまもそうだ。でも気づかないフリをして自分を欺くのは嫌だ。本当はこんな拙くまとまりのない文章を書いているこの時間も、全部絵を描く時間にしたい。でも、それがどうしてもできないくらいには、立ち止まって、真剣に考えている。どうしよう。答えが出るのかもわからないぞ。

 

来年には30歳になる。わたしの人生を飛行機で例えるなら、搭乗時間が終わり、ようやく滑走路を走ろうとしているところだ。大空に旅立つために10代、20代を生きてきた感覚がある。飛行機は前進しかできないらしいから、飛び立ったらもう後ろには決して進めない。だから後悔しないように、いろんなことを一生懸命考え、たまには直感に身を任せて、そのときのベストの選択をしたいなと思う。

 

 

話は脱線するけど、最近星野さんの「働く男」を常に持ち歩いている。この本はちょうど星野さんがわたしと同い年くらいの頃に書かれたエッセイが載っている。今生きてる星野さんがだいすきなので、本を読んでいると「この星野さんは星野さんだけど、やっぱりすごく変わったんだなあ」と感じる。

でも、星野さんがわたしと同い年の頃、どんなものを見聞きして、考えていたかという思考を知れるのが嬉しいし、特定の人がいつ、どんなことを考えて生きてきたかを文章でたどりながら知る時間は(自粛期間で人と会えないということもあって)すごく豊かな時間だ。絵を描くことについてこんなに考えるようになったのも、星野さんの影響によるところが大きいと思う。星野さん、いつも刺激とあったかい愛をありがとう。

 

 

働く男 (文春文庫)
働く男 (文春文庫)
  • 作者:星野 源
  • 発売日: 2015/09/02
  • メディア: 文庫
 

 

 


星野源 – 創造 (Official Video)

 

モノが世界を変えた話

実家を出るときにベッド以外の物をほぼすべて処分して身ひとつで家を出たわたしは、どちらかというとミニマリストだ。部屋の乱れは心の乱れというけど、(わたしの場合は)本当にそのとおりだ。仕事や原稿の締め切り間近でズタボロのときはこんなに乱れるか?というくらいの地獄絵図が目の前に繰り広げられている。身も心も極力スマートかつシンプルに生きたいね。部屋に物が少なければ少ないほど心地いい。メインマシンに不必要なデータが入っていない方が心地いい。好きな物に囲まれているのは苦ではないが、そうでないと耐えられない。そのときにときめいたものは買うけど、今の自分から見てときめきを感じなければ容赦無く手放す。思い出だけで物を所有しない。よくミニマリストの人が本やブログに書いているように、物に執着しなくなると、それ以外のことにも執着しなくなるって一理あるなあと思ったりもする。

 

そんなふうに思うのに、今どうしても手放せないものがある。MacBook Air(13-inch,Early 2015)だ。このマシンとの出会いで劇的にわたしを取り巻く世界が変わり、可能性に満ち、心の救いとなった。

 

このマシンと出会ったのは今から4〜5年前だと思う。社会人になって数年経ったあの頃、身も心もボロボロだった。仕事だけじゃなくて、人間関係とか、そういうもので。あのころはひどく(表には出さないが)感情的で、思い返せばいつも悲しい気持ちだったし、次々と起こる事象に心が振り回されていたと思う。感情に支配され、振り回されるのは辛かったし、しんどかった。みんな優しかったけど、端的に言うと心が疲弊していたのだ。

忘れもしないボーナスが入った日の初夏。このままではダメだ、自分を大切に、いきいきする時間をつくろうと決意して、そのためにお金を使おうと思った。大学生になってからずっとやめていたことをもう一度やりたいと思った。それが絵を描くことだった。

 

絵を描く=パソコンを使って描くという等式が成立していたので、仕事終わりにバスを降りて迷わずヨドバシカメラに飛び込んだ。そこに広がるのは機械・機械・機械の海。長方形の黒い物体にいったいなんの違いがあるのかわからず、店員のお兄さんに声をかけた。「絵を描きたいんですが、絵を描くのに向いているパソコンとペンタブを教えてください」。「デジタルで絵を描くなら絶対これっすよ!」。そうして出会ったのがMacBook AirWACOMのペンタブだった。

 

そこからもう記憶があまりない。とにかく毎日5分や10分でもいいから、ペンを握って絵を描いた。出来上がるのはへたくそな絵しかなく落ち込んだりもしたが、すきな色を選び取ること、線を引くことの楽しさで心が支配された。あの日から自分がどういう絵がすきなんだろうと考え始めて、そこから派生して絵だけじゃなく、どういうものに心を動かされるのか、出来上がった稚拙な絵を見ながら新しい自分を発見できたように思う。あのころのわたしにとって絵を描くことは、自分さがしの旅だったし、救済だった。

 

それは今もそうで、なにもかもを忘れて無心で手だけを動かす時間*1は、人生の中でなにもかもから開放される最も自由な時間だ。わたしにとってそういう時間は絵を描くことだったけど、きっと人によってはスポーツや音楽かもしれないし、料理や読書かもしれない。人から見たらただのちっぽけな趣味なんだろうけど、なにをするよりもエネルギーが回復する時間なのだ。そして絵を描いていて、作品を褒められることよりもうれしかったのが、絵をはじめたんだ!と声をかけてくれる友人が増えたことだった。絵を見せあうということは心やたましいを交換することと同じなので、なんだか人と昔よりも心と心で、本心だけで会話ができるようになったような気もする。

 

MacBook Airとペンタブを入手してから、デジタル環境も劇的に進化して、Appleペンシルが登場してiPadで絵を描けるようになったり、緊急事態宣言や外出自粛なんかもきっかけで、諸々考慮し、この度メインマシンをiMacに変えた。それでもMacBook Airは(動作がときどき怪しいが)OSのサポートが切れるそのときまで大事にしたいと思う。まっくらな自室でトレードマークのリンゴマークが光っているのを見るたびに、世界へのいとおしさを噛み締めていきたいな。

*1:集中モードが天元突破し、覚醒した状態を種割れモードと呼んでいる(ガンダムの見過ぎ)

特異点をささげること

ちぐはぐで、まったくやる気のないSFのような世界がやってきた日、わたしは「トップをねらえ2!」を観た。トップをねらえ2!は、新世紀エヴァンゲリオンなどを制作したGAINAX設立20周年の記念としてつくられたアニメーションだ。前作は1988年にOVAとして制作された「トップをねらえ!」(監督はいわずもがな庵野秀明。旧GAINAXの愛するトップクリエイターが多数参加しているからという理由で観た。

 

物語の世界では、人類は宇宙怪獣と呼ばれる存在と戦い続けており、その戦力となるのがバスターマシンというメカで、それを超能力で動かす「トップレス」と呼ばれる少年少女がいる。ラルクという褐色の超絶カワイイトップレスの美少女と、ノノという天然で天真爛漫な超絶カワイイアンドロイド美少女が出会うところからはじまり、友情が深まり、そうして地球を救うために別れが訪れる。

 

鶴巻監督がインタビューで「トップレスとは情報を別の情報に置き換える力(情報の再構築力)」だと答えていた記事を読んで、一般的に認知されている超能力という現実からかけ離れた摩訶不思議なものが、とても身近なものに感じた。たとえば、食材を調理して食卓を彩ること、一枚の布から洋服をつくること、折り紙を折って鶴をつくること。これらもトップレスなのだ。

 

子どものころ、超能力や魔法といったものに猛烈に憧れていたけど、大人になるとそういった感情が薄れていったり、あるいはなくなってしまうのは、きっと大人になるにつれてできることが、子どものころよりも増えるからなのだと思う。

 

じぶんには何もない、才能なんてない、なんて思っているひともたくさんいるかもしれないけど、みんな必ずトップレスを持っている。そう思うととても心が豊かになった。なにかを考えて作り出すことは喜びだ。きっとその喜びやプラスのエネルギーはだれかにもきっと伝わるもののはずだ。ノノが友だちでいてくれたらトップレスがなくなることが怖くないと叫んだラルクに、別れ際、ノノがラルクに自分の思いの結晶として折り鶴を残したように、どんな方法やかたちでもいいから、思いをだれかに繋げることの大切さをしみじみと感じる。

 

残念ながら現在のGAINAXには昔の面影はなく、人材はカラーやTRIGGERに移籍しているが、当時20周年を迎えたGAINAXが残した特異点は、それぞれの制作会社に受け継がれているのではないかなと思う。BNAも最高に面白かったし、エヴァの劇場版も楽しみだなあ。

 

 

トップをねらえ2! Blu-ray Box

トップをねらえ2! Blu-ray Box

  • 発売日: 2012/06/22
  • メディア: Blu-ray
 
第1話 お姉さまと呼ばせてください!

第1話 お姉さまと呼ばせてください!

  • 発売日: 2016/09/02
  • メディア: Prime Video
 

 

 

詩の話

まさか自分が詩を嗜むようになるとは思っていなかった。学生時代、国語の授業でなんとなく詩を読み、作者の意図が反映されているのかすら定かでない問いに、攻略方法を用いて解答するサービス問題だと思っていた。その一連の流れに情緒のかけらもない。

 

社会人になってから学生時代と比べて読書時間が激減し、それでもなんらかの活字が読みたい!と思ったときにひらめいたのが詩だった。動機が単純。そんなときにふとSNSを眺めていて出会ったのが最果タヒの詩集「愛の縫い目はここ」だった。2,3年前のことである。衝撃だった。言葉でこれほどまでに胸が痛くて、でもどことなくやさしく抱きしめられるような、ハッピーなのかアンハッピーなのか自分の感情がわからず、グチャグチャな気持ちになったのは初めてで、読了後大粒の涙を流した。繊細で、痛くて、でも彼女の書く詩の根幹は愛で、なんだかそれがとても心地よくて、ずっと読んでいたくなる。

 

彼女の詩の中でも「絆未満の関係性について」という作品がいっとうすきだ。この詩は"わたし"と”あなた”のふたりだけにしかわかりえなかった関係性が、友情や愛という言葉を伴って規格化されるという内容だ(と個人的に解釈している)。

わたしがかみさまなら、あなたとのこの関係性にあたらしく名前を付けて、友でも恋人でもなく、あなたの名前をつけていた。

改めてこの詩を読んで反省した。社会生活のなかで構築される既成概念にとらわれて、友人の交際関係について話をきいているときに「そんなの"普通に考えて"変だよ」とか「それ"絶対"相手はこう思ってるよ」なんて言葉を発してしまうことがあるけど、「友人なら、恋人なら、家族ならこうあるべきだ」とか「こうじゃないからおかしい」って他者であるわたしが勝手に判断を下すべきではないと。至極当たり前だけど、当人同士のことは当人同士にしかわからない。置かれている状況を理解したり共感することはできても、相手の気持ちを”完璧にわかる"なんてこと、神さまや仏さま以外には無理なのだ。無理だという言葉は諦めのようにきこえてしまうかもしれないけど、相互不理解を認めているからこそ、寄り添えるように努力ができるはずだし、努力しなければならない、と自戒。

 

死んでしまう系のぼくらに

死んでしまう系のぼくらに

  • 作者:最果 タヒ
  • 発売日: 2014/08/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

自分の感情は絵や漫画で表現するほうが得意だけど、「詩」という言葉を扱うものに対しての「すき」はどうしても言葉で表現したく、1年ぶりに更新してみた。語彙力のなさが悲しい。伝えたいことの半分も伝えられない。言葉を使うのは難しいな。

無題

「あらゆる動物の中で物語を楽しめるのは人間だけ」という言葉を胸に小説・映画・アニメ等あらゆるものを摂取し、心に栄養を蓄えて生きている。物語って、自分が経験した出来事とシンクロすると共感するし、物語上で未知の出来事が起こったときは世界が広がるし、あらゆる感情を知ることができておもしろい。感想を共有するのも楽しい。

 

その感想のなかで、最近、結末に関する「ハッピーエンド」の感じ方が人によってこんなにも違うのか!ということに驚く。

 

物語の結末にはいくつか定義がある(pixiv百科辞典より引用)。

・ハッピーエンド

物語が、幸せな結末、良い結末になること。

・バッドエンド

不幸・最悪な物語の結末。

・メリーバッドエンド

受け手の解釈によって幸福と不幸が入れ替わる結末。

 このほかにもバウムクーヘンエンドなどもあるがここでは割愛してメリーバッドエンド(通称メリバ)の話をしたい。

 

有名な作品でメリバの例を挙げるなら映画・「ラ・ラ・ランド」かな。個人的には最高のハッピーエンドだと思っているけど(長い人生の中で一時期でも想い合った二人がきれいな思い出を思い出のままにそれぞれの人生を歩んでいくなんて最高じゃないか!という理由)、中には「ふたりがくっつかないなんて!バッドエンド!クソ!お金返して!」「ふたりに幸せになってほしかった…」という感想もあったし、この作品の結末への評価は真っ二つに割れてる印象。

 

家族や友人など、自分のそばにいてくれてる人たちの幸せはずっと願っているけど、フィクションに対して「幸せになってほしい」という感情があまりわからなくて、ずっと頭にはてなマークが飛んでたので考えてみた。

その結果、「幸せになってほしい感情」は、“映画を見ているわたし自身の幸せ”を物語の主人公に仮託しているのかもしれないという結論に至った(仮託って言葉この使い方であってるのか?)。

そう思うと「幸せになりたくて映画を見たのにふたりが結ばれないからバッド」っていう気持ちになるほどと頷ける。幸福をお金で買えた!と思ったのに裏切られたのだ。

 

お金を出せばなんでも手に入る時代だからこそ、これからは“価値”を売ることが重要だ!とニュースの評論や本でも書かれるようになっている、けど、けど、幸せってお金で買えるものなのか!?幸福まで買えてしまうのなら、お金があるイコール幸せなのか!?

 

そんなことを考えながら、昨日放送されたアニメ「さらざんまい」9話を見たら、久慈兄弟にメチャクチャ泣かされて、この疑問へのひとつの答えをもらった。ここからネタバレだけど、兄弟は親の借金が原因で兄は悪の道へ足を踏み入れ、大金を手に入れたのに最終的に幸福は訪れなかったのだ。この兄弟の幸福はお金がなくても共に過ごした時間だったんだな〜(○回想(×海藻))(Cパートのこの皮肉の描き方がイクニ監督らしい…)

 

幸福ってなんなんだろう?という疑問はこれから先の人生でもずっと考えてしまうんだろうな。その時々で思うことを言語化できればいいな。何が言いたいのかわからんブログになった(いつも)。

オワリ。

21時のシンデレラ

初恋か、その次にすきになった人だった。当時、小学6年生だった私にはませた年頃の女子らしく、同じクラスにすきな男の子がいた。その子は決してハンサムではない。かといって不細工でもない。モテるタイプでもなかった。背が低くて、髪型も丸刈りだったし、体型もぽっちゃりしていたし、色黒だった。けれど、野球が得意で(勉強もそこそこできた)、人一倍正義感が強く、たくましく、言いたいことを素直にハッキリ言える子だった。幼い私にでもわかるくらいには、周囲の人にも気を遣っていた。そんな彼は老若男女問わず、誰からも好かれていたし、人望が厚い少年だった。

彼とは同じクラスだったので、班が同じになればよく話をしたし、掃除当番に一緒に当たれば、やあやあ掃除の文句を言いながら箒とちり取りを扱ったものだった。複数の友人と一緒に下校したりもした。当時、鋼の錬金術師がめちゃくちゃ流行っていた時期で、私が「面白いから読んでみて」と言った次の日には、彼は入手してくれていて、その世界観に共にどハマりしたものだった。

私と彼が住んでいたのは田舎の住宅街(5分もあれば家に行ける距離)。彼の家は犬と猫を飼っていて、次男の彼は週2回ほど犬の散歩の当番があった。夜20時。部屋のベランダに出ると、私の家の下に白くてかわいいマルチーズと一緒に彼がいた。遠い昔のことすぎて、どうして定期的にその時間帯にベランダ越しで会うようになったのか、全然思い出せない。でもあの時間の空気感が今でもしっかりと思い出せる。好きな漫画のこと、テレビの話題、クラスでのなんでもない出来事や悩み、家族のこと。20時から21時までのたった1時間だけの二人の時間が、無限に続けばいいのにと思うくらい心地よかった。