ちらしのうら

感情の言語化をめざして

モノが世界を変えた話

実家を出るときにベッド以外の物をほぼすべて処分して身ひとつで家を出たわたしは、どちらかというとミニマリストだ。部屋の乱れは心の乱れというけど、(わたしの場合は)本当にそのとおりだ。仕事や原稿の締め切り間近でズタボロのときはこんなに乱れるか?というくらいの地獄絵図が目の前に繰り広げられている。身も心も極力スマートかつシンプルに生きたいね。部屋に物が少なければ少ないほど心地いい。メインマシンに不必要なデータが入っていない方が心地いい。好きな物に囲まれているのは苦ではないが、そうでないと耐えられない。そのときにときめいたものは買うけど、今の自分から見てときめきを感じなければ容赦無く手放す。思い出だけで物を所有しない。よくミニマリストの人が本やブログに書いているように、物に執着しなくなると、それ以外のことにも執着しなくなるって一理あるなあと思ったりもする。

 

そんなふうに思うのに、今どうしても手放せないものがある。MacBook Air(13-inch,Early 2015)だ。このマシンとの出会いで劇的にわたしを取り巻く世界が変わり、可能性に満ち、心の救いとなった。

 

このマシンと出会ったのは今から4〜5年前だと思う。社会人になって数年経ったあの頃、身も心もボロボロだった。仕事だけじゃなくて、人間関係とか、そういうもので。あのころはひどく(表には出さないが)感情的で、思い返せばいつも悲しい気持ちだったし、次々と起こる事象に心が振り回されていたと思う。感情に支配され、振り回されるのは辛かったし、しんどかった。みんな優しかったけど、端的に言うと心が疲弊していたのだ。

忘れもしないボーナスが入った日の初夏。このままではダメだ、自分を大切に、いきいきする時間をつくろうと決意して、そのためにお金を使おうと思った。大学生になってからずっとやめていたことをもう一度やりたいと思った。それが絵を描くことだった。

 

絵を描く=パソコンを使って描くという等式が成立していたので、仕事終わりにバスを降りて迷わずヨドバシカメラに飛び込んだ。そこに広がるのは機械・機械・機械の海。長方形の黒い物体にいったいなんの違いがあるのかわからず、店員のお兄さんに声をかけた。「絵を描きたいんですが、絵を描くのに向いているパソコンとペンタブを教えてください」。「デジタルで絵を描くなら絶対これっすよ!」。そうして出会ったのがMacBook AirWACOMのペンタブだった。

 

そこからもう記憶があまりない。とにかく毎日5分や10分でもいいから、ペンを握って絵を描いた。出来上がるのはへたくそな絵しかなく落ち込んだりもしたが、すきな色を選び取ること、線を引くことの楽しさで心が支配された。あの日から自分がどういう絵がすきなんだろうと考え始めて、そこから派生して絵だけじゃなく、どういうものに心を動かされるのか、出来上がった稚拙な絵を見ながら新しい自分を発見できたように思う。あのころのわたしにとって絵を描くことは、自分さがしの旅だったし、救済だった。

 

それは今もそうで、なにもかもを忘れて無心で手だけを動かす時間*1は、人生の中でなにもかもから開放される最も自由な時間だ。わたしにとってそういう時間は絵を描くことだったけど、きっと人によってはスポーツや音楽かもしれないし、料理や読書かもしれない。人から見たらただのちっぽけな趣味なんだろうけど、なにをするよりもエネルギーが回復する時間なのだ。そして絵を描いていて、作品を褒められることよりもうれしかったのが、絵をはじめたんだ!と声をかけてくれる友人が増えたことだった。絵を見せあうということは心やたましいを交換することと同じなので、なんだか人と昔よりも心と心で、本心だけで会話ができるようになったような気もする。

 

MacBook Airとペンタブを入手してから、デジタル環境も劇的に進化して、Appleペンシルが登場してiPadで絵を描けるようになったり、緊急事態宣言や外出自粛なんかもきっかけで、諸々考慮し、この度メインマシンをiMacに変えた。それでもMacBook Airは(動作がときどき怪しいが)OSのサポートが切れるそのときまで大事にしたいと思う。まっくらな自室でトレードマークのリンゴマークが光っているのを見るたびに、世界へのいとおしさを噛み締めていきたいな。

*1:集中モードが天元突破し、覚醒した状態を種割れモードと呼んでいる(ガンダムの見過ぎ)