ちらしのうら

感情の言語化をめざして

詩の話

まさか自分が詩を嗜むようになるとは思っていなかった。学生時代、国語の授業でなんとなく詩を読み、作者の意図が反映されているのかすら定かでない問いに、攻略方法を用いて解答するサービス問題だと思っていた。その一連の流れに情緒のかけらもない。

 

社会人になってから学生時代と比べて読書時間が激減し、それでもなんらかの活字が読みたい!と思ったときにひらめいたのが詩だった。動機が単純。そんなときにふとSNSを眺めていて出会ったのが最果タヒの詩集「愛の縫い目はここ」だった。2,3年前のことである。衝撃だった。言葉でこれほどまでに胸が痛くて、でもどことなくやさしく抱きしめられるような、ハッピーなのかアンハッピーなのか自分の感情がわからず、グチャグチャな気持ちになったのは初めてで、読了後大粒の涙を流した。繊細で、痛くて、でも彼女の書く詩の根幹は愛で、なんだかそれがとても心地よくて、ずっと読んでいたくなる。

 

彼女の詩の中でも「絆未満の関係性について」という作品がいっとうすきだ。この詩は"わたし"と”あなた”のふたりだけにしかわかりえなかった関係性が、友情や愛という言葉を伴って規格化されるという内容だ(と個人的に解釈している)。

わたしがかみさまなら、あなたとのこの関係性にあたらしく名前を付けて、友でも恋人でもなく、あなたの名前をつけていた。

改めてこの詩を読んで反省した。社会生活のなかで構築される既成概念にとらわれて、友人の交際関係について話をきいているときに「そんなの"普通に考えて"変だよ」とか「それ"絶対"相手はこう思ってるよ」なんて言葉を発してしまうことがあるけど、「友人なら、恋人なら、家族ならこうあるべきだ」とか「こうじゃないからおかしい」って他者であるわたしが勝手に判断を下すべきではないと。至極当たり前だけど、当人同士のことは当人同士にしかわからない。置かれている状況を理解したり共感することはできても、相手の気持ちを”完璧にわかる"なんてこと、神さまや仏さま以外には無理なのだ。無理だという言葉は諦めのようにきこえてしまうかもしれないけど、相互不理解を認めているからこそ、寄り添えるように努力ができるはずだし、努力しなければならない、と自戒。

 

死んでしまう系のぼくらに

死んでしまう系のぼくらに

  • 作者:最果 タヒ
  • 発売日: 2014/08/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

自分の感情は絵や漫画で表現するほうが得意だけど、「詩」という言葉を扱うものに対しての「すき」はどうしても言葉で表現したく、1年ぶりに更新してみた。語彙力のなさが悲しい。伝えたいことの半分も伝えられない。言葉を使うのは難しいな。