ちらしのうら

感情の言語化をめざして

福永武彦『草の花』を読んで

感銘を受ける本に出会うときは、大抵の場合、本に呼ばれるものだ。この本との出会いもそうだった。ある冬の休日、いつものように本屋でふらふらと立ち読みをしていたとき、どうしようもなく「福永武彦」の名前に、そして本のタイトル『夢見る少年の昼と夜』に惹かれたのだ。本を手に取り、文章を読むと、私の遠縁の親戚にあたる池澤夏樹が解説を書いており、なんと池澤氏の父が福永武彦だという事実を知る。私は福永武彦とも遠い、遠い血縁者だったのだ。(この話を父に話すと知らんかったんかい、と笑われた)

そのような経緯があり、福永氏の文章を俄然読みたくなった私は、代表作ともいえる『草の花』をどうしても読みたくなり、手に取った。


<あらすじ>

研ぎ澄まされた理知ゆえに、青春の途上でめぐりあった藤木忍との純粋な愛に破れ、藤木の妹千枝子との恋にも挫折した汐見茂思。彼は、そのはかなく崩れ易い青春の墓標を、二冊のノートに記したまま、純白の雪が地上をおおった冬の日に、自殺行為にも似た手術を受けて、帰らぬ人となった。まだ熟れきらぬ孤独な魂の愛と死を、透明な時間の中に昇華させた、青春の鎮魂歌である。


物語の構成は「冬」「第一の手帳」「第二の手帳」「春」の4部で構成されている。(構成は夏目漱石の『こころ』と同じだ)「冬」は汐見が自殺行為にも似た手術を受け死を迎える。「第一の手帳」は汐見が一人目に愛した藤木少年との物語。「第二の手帳」は藤木の妹・千枝子との恋愛物語。「春」は書き手(私)が汐見の残した手帳を読了した後、千枝子へ手紙を送る内容となっている。


私は汐見茂思という人物に魅了された。その聡明さに憧れと尊敬の念を抱き、真の(精神的な)愛を追い求める姿勢にどこか自分自身と共鳴する部分を感じ、読了後は静かに涙がこぼれ落ちた。汐見は一言で言えば「覚めた人」である。汐見は二人の人物を愛することにより、その人物を通じて、肉体の先にある永遠の純潔を愛した。それはどれだけ汐見が二人を愛していても、藤木にも千枝子にも理解の及ばないものだったからこそ、両者とも、汐見を深く愛していながらも立ち去ったのだと思う(藤木は病気が原因で帰らぬ人となったのだから、余計に悲しい)。藤木も千枝子も、汐見の愛(というより彼が求めた愛)に応えることができないと確信していた。だから、汐見の前から去ること=最大の愛情表現だったのだろう。そんな愛情表現は汐見に伝わるはずもなく、彼は愛した人から愛されたという自覚がないまま、孤独を抱いて死を迎える。この孤独は想像を絶するものがあり、ぎゅっと胸を締め付けられてしまった。


どうすれば汐見のように真の愛を求めながらも、愛する人を手放さずにすむのか。それは自分自身の孤独から脱却することなのではないかと考えた。汐見は愛する欲求・愛に対する理想が高いが故に、自分が相手に注いだ愛情と等しいものを欲していたのではないだろうか。自分の殻に閉じこもり、あれこれと考えている様子は相手を尊重し、配慮しているようにも見えるが、それは自分が傷つかないように、自分の身を守るための思考だったのかもしれない。


つらつらと書いてしまった割に、この本の素晴らしさがまったく伝わらないと思うけれど、壁打ちだからいいかな。もう、本当に本当に素晴らしい本だった。福永氏と感性が近いと感じたし、瑞々しく・叙情的な文章で、自分の好きなものがたくさん詰まっていた。好きな言葉もたくさんあるので、以下引用メモ。

拙い感想だけど、読み返したら再考したいし、これからも折に触れて読み直すと思われる。


「僕は芸術家になりたいと思ったことがある、が、若い時は誰だってそんなことを考えるのじゃないか。それに僕は、物を書かないでも、物を見ることによって芸術家でありたいと願った。或いは、生きることが芸術でありたいと願った。生きるということは、その人間の固有の表現だからね。で、僕はそのように生きたのだ。」

美大への進学を断念したことがあるので、もう私は芸術家にはなれないけど、これから先の人生、芸術的に生きることならいくらだってできる。美しいものをたくさん見て、共感し、心の栄養にしていく。そんな豊かな人生を送りたいな、と思えるようになった。汐見の台詞で一番好きだ。


「本当の友情というのは、相手の魂が深い谷底の泉のように、その人間の内部に眠っている、その泉を見つけ出してやることだ、それを汲み取ることだ。これは普通に、理解するという言葉の表すものとはまったく別の、もっと神秘的な、魂の共鳴のようなものだ。僕は藤木にそれを求めているんだ。それが本当の友情だと思うんだ。」

汐見の友情論。同性である藤木を愛したのは、容姿や肉体に惹かれていたのではなく、藤木が清純で美しい魂を持っていたからだと感じた台詞。美しい魂を見出せた汐見も素晴らしいし、その美しさを愛せるのは、汐見も藤木と同じくらい美しい魂を持っているからなのではないか。


「僕の死は、僕にとって世界の終わりであると共に、僕の裡なる記憶と共に藤木をもまた殺すだろう。僕の死と共に藤木は二度目の死を死ぬだろう。しかしそれまでは、僕の死までは、ー藤木は僕と共にあり、快い音楽のように、僕の魂の中に鳴りひびいているだろう。」

「人間は三回死ぬ」というのを宗教学か何かの授業で聞いたのを覚えている。一番目は肉体の死、二番目は当人を知る者の死、三番目は生存していた記録の消滅による死(だったはず)。福永氏もキリスト教の家庭で育ったということもあり、作品にはキリスト教はもちろん、哲学的な内容も盛り込まれており、とても興味深かった。私も縁あってキリスト教に興味を持ち、神学部を卒業したのも、神の見えざる手によるものだったんだろうなあ。福永氏との縁を感じた一文。この一文だけだと感動があまり伝わらないけれど、前後の文脈を読むと涙なしでは読めなかった。金曜日の夜、進々堂でパンを貪りながら大号泣してしまって、きっと情緒不安定なOLだと思われただろうなあ。いやあ。お恥ずかしい。

草の花 (新潮文庫)

草の花 (新潮文庫)