ちらしのうら

感情の言語化をめざして

無題

「あらゆる動物の中で物語を楽しめるのは人間だけ」という言葉を胸に小説・映画・アニメ等あらゆるものを摂取し、心に栄養を蓄えて生きている。物語って、自分が経験した出来事とシンクロすると共感するし、物語上で未知の出来事が起こったときは世界が広がるし、あらゆる感情を知ることができておもしろい。感想を共有するのも楽しい。

 

その感想のなかで、最近、結末に関する「ハッピーエンド」の感じ方が人によってこんなにも違うのか!ということに驚く。

 

物語の結末にはいくつか定義がある(pixiv百科辞典より引用)。

・ハッピーエンド

物語が、幸せな結末、良い結末になること。

・バッドエンド

不幸・最悪な物語の結末。

・メリーバッドエンド

受け手の解釈によって幸福と不幸が入れ替わる結末。

 このほかにもバウムクーヘンエンドなどもあるがここでは割愛してメリーバッドエンド(通称メリバ)の話をしたい。

 

有名な作品でメリバの例を挙げるなら映画・「ラ・ラ・ランド」かな。個人的には最高のハッピーエンドだと思っているけど(長い人生の中で一時期でも想い合った二人がきれいな思い出を思い出のままにそれぞれの人生を歩んでいくなんて最高じゃないか!という理由)、中には「ふたりがくっつかないなんて!バッドエンド!クソ!お金返して!」「ふたりに幸せになってほしかった…」という感想もあったし、この作品の結末への評価は真っ二つに割れてる印象。

 

家族や友人など、自分のそばにいてくれてる人たちの幸せはずっと願っているけど、フィクションに対して「幸せになってほしい」という感情があまりわからなくて、ずっと頭にはてなマークが飛んでたので考えてみた。

その結果、「幸せになってほしい感情」は、“映画を見ているわたし自身の幸せ”を物語の主人公に仮託しているのかもしれないという結論に至った(仮託って言葉この使い方であってるのか?)。

そう思うと「幸せになりたくて映画を見たのにふたりが結ばれないからバッド」っていう気持ちになるほどと頷ける。幸福をお金で買えた!と思ったのに裏切られたのだ。

 

お金を出せばなんでも手に入る時代だからこそ、これからは“価値”を売ることが重要だ!とニュースの評論や本でも書かれるようになっている、けど、けど、幸せってお金で買えるものなのか!?幸福まで買えてしまうのなら、お金があるイコール幸せなのか!?

 

そんなことを考えながら、昨日放送されたアニメ「さらざんまい」9話を見たら、久慈兄弟にメチャクチャ泣かされて、この疑問へのひとつの答えをもらった。ここからネタバレだけど、兄弟は親の借金が原因で兄は悪の道へ足を踏み入れ、大金を手に入れたのに最終的に幸福は訪れなかったのだ。この兄弟の幸福はお金がなくても共に過ごした時間だったんだな〜(○回想(×海藻))(Cパートのこの皮肉の描き方がイクニ監督らしい…)

 

幸福ってなんなんだろう?という疑問はこれから先の人生でもずっと考えてしまうんだろうな。その時々で思うことを言語化できればいいな。何が言いたいのかわからんブログになった(いつも)。

オワリ。