ちらしのうら

感情の言語化をめざして

新年あけましておめでとう

あけましておめでとう。こんにちは2019年!あたらしい年がやってきた。

実は、というか、むかしからあまりイベント的なものに関心が持てる情緒を持ち合わせておらず、あたらしい年がきたからといって、とくに気持ちの持ちようは変わらない。

でもなんとなく、今年はことばの使い方に気をつけていきたいなあと思う。いつだったかな、どこかで"くちから真珠が出るようなことばを使いなさい"という教えをきいたことがある。くちから真珠。くちからぽろぽろと、白くて控えめな美しさを持つものが溢れてきたらどれだけきれいだろう。それはきっと自分自身も、まわりのひともしあわせにするに違いない。

ただ、案外むずかしいのは、心の中で自分が自身に向けて言うことばの黒さというか、そういうものを真珠に変えることかもしれないなあ、なんて。

印象をきめることについて

絵画教室では、毎週80歳くらいの元気なおじいちゃんが美しい日本画を模写している。もうすぐ完成なんですか?と聞いたら、「顔描いたらおわりやな。顔はいちばん最後に描くんや」と言っていた。顔が印象を決めるから、とのこと。

なるほど、と思った。

わたしは人物を描くとき、身体のアタリをとったらまず顔を描く。色を塗るときも肌、目、髪の毛の順。顔から描いちゃうと顔に合う背景や色を決めなきゃいけないけど、顔がいちばん最後なら場面の構成や雰囲気を重点的に描けるもんなあ。ふむふむ、と思った備忘録。

うまくなることについて

物心がついたときから趣味で絵を描いている。誰かと競ったりするわけでもないけど、昔からうまくなりたいと思っていた。


で、最近うまくなりたいと思う理由がわかった。わたしは技術的な意味でうまく絵を描きたいわけではなくて、自分の頭のなかにふっと湧いてきたイメージや解釈を思ったとおりに描きたかったのだ。それができることを「うまく絵を描く」。これがいちばんしっくりきた。

技術的な意味で巧い絵を描く人なんて山ほどいると思うけど、それよりもわたしは誰かにすきになってもらえることのほうがよっぽど大事だと思う。巧い絵ならプロの絵を見ればいい。


ただの好みだけど、わたしは完璧なものよりも個性を感じる絵の方がすきだ。たとえばまっすぐな直線よりもフリーハンドで描かれた線の方がすきだ。パースがきっちりしているものより、多少バランスが崩れているほうがすきだ。ああ、この描き手はこれが描きたかったのだな、この対象物がとてもすきなんだなと伝わってくるような絵がすきだ。

自分の思うままに、自由に世界をつくれるというのが、絵を描くことの醍醐味なのかもしれないなあなんてデッサンをしながらふと思った、7月の午後。

花言葉

ふと気になって自分の名前についている「梨」の花言葉を調べてみたら「愛情」だった。たくさんの大きな実をつけ、まるで感謝しお礼をしているかのような梨の姿にちなむそう。なんて素敵なんだろう。だいすきな両親から名付けてもらい、昔から自分の名前も漢字もだいすきだったけど、このことを知ってからさらに愛が増す。名前に恥じぬよう、溢れんばかりの愛を振りまける人になろう。

幸福を記録するということ

image
image
image
image

デザインの本を読んでいたときに出会ったラルティーグの「スージーヴェルノン」の写真がまさに自由の象徴のようで、いつか展示を見たいと思っていた。

Tシャツ、ジーパン、持ち物は財布とスマホのみという25歳のOLとしては失格のような格好で散歩をしていたら、細見美術館でラルティーグ展が開催中。秒で入館を決めた。偶然は必然って本当なんだなあ。そして思考は現実になる、この言葉も本当だな。

幸せな瞬間を逃したくない、という真っ直ぐな気持ちから写真を撮り続けたラルティーグ。いくつになっても少年のような、ユーモアのある写真がたくさんあってとっても素敵。彼の写真はモノクロームが多い印象だけど、展示ではカラーがたくさんあって感動。色合いがとっても綺麗。中でもフロレットという女性が凛としていてとってもキュート。きっと彼女は赤色がすきだったんだろう。

「人生とは、踊り、跳びはね、飛翔し、笑い、そうして過ぎ去っていく素晴らしいものだ」

幸福な瞬間を逃すことなく、形に残し続けることの大切さ。そして、幸せな瞬間というものは非日常ではなくごくごくありふれた日常だということにきちんと気づくことの大切さを改めて実感。彼の生き方がすきだ。

20代後半らしさ

一週間インフルエンザで会社を休んでいた。だけど思ったよりしんどくなくて、三食きちんとつくって食べて、すきな映画を観たり、絵を描いたり、漫画や本を読んだり。病気だったのに、普段の生活の何十倍も人間らしい生活ができた。

それでふと思い出した。村上春樹の、何の小説か忘れてしまったのだけど、アラサーかアラフォーの独身OLが「スーパーで買い物して、料理をする。わたしにとってはこういう地味な休日も大切」って付き合ってる(と言っていいのかわからない関係の)男にこんな感じの内容を話す場面があった。

読んだときはまだ遊びたい盛りで何とも思わなかったけど、今はこの台詞に完全に同意する。もちろん誰かと会って遊ぶのも心の底から楽しい。それは紛れも無い事実。だけど一人で買い物に行って、食料や日用品を買い、本屋に寄り、家に帰って料理をする。好きな音楽を聴きながら絵を描き、夜は映画を観る。そんななんでもないどこにでもあるような休日が、今の自分にとって必要なんだなあと身に沁みた。

今年で26歳。ぼちぼち、落ち着きたいのかもしれないなあ。

まっくろの言語化

きれいな言葉を心に貯めれば豊かになれる。けれどそうではない言葉を浴び続けると心がどんどん真っ黒になってゆく感覚、お分かりだろうか。そしてそんな真っ黒を、なんらかの形で放出しないと荒んでしまう。

幼い頃からその感覚がずっとあって、言葉の力をひしひしと感じるからこそ、いろんなことを軽率に発言できないでいる。臆病だ。だけどたまにはこうして、普段は言語化できないでいる感情を表しておくのも自分のためには必要だな。